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 ちいさな神様


 花見酒の相手をしろとの言葉に、一も二もなく馳せ参じた首無である。
 酒と盃を調達して戻れば、縁側に座した主が待ち受けていた。
 まずは一献、と酒を注いだのはつい先刻。

 酒精がゆるり、ゆるりと空気を揺るがしている。
 盃になみなみと酒を満たし、だが口をつけずにリクオは凪いだ水面を見つめている。
「若、どうかされましたか?」
「ああ、お前ェは気にせず飲め」
「若より先に飲めるわけがないでしょう」
「固ェ奴だな」
 ふ、とリクオが笑う。
 それだけで夜闇がざわりと、嬉しげに風を鳴かせた。
 爪痕のような月が辛うじて引っかかっている夜の空、星灯りは遠く、静けさに塗り潰された庭は、まさしくあやかしが闊歩するに相応しい。
 その中心に、悠然と居る。
 まさしく、百鬼夜行を率いる主よと、首無は目を細めた。
「ったく、気にすんなってのに」
 リクオは仕方ない、と言いたげに口の端を持ち上げると、酒の香気ごと飲み干すかのように盃を傾けた。

 夜にぼうと白く浮かぶしだれ桜を肴に、一献、また一献と杯を重ねる。
「首無よう」
「なんでしょう」
 リクオはふと、怜悧な眼差しを緩める。
「可笑しいとは思わねェか」
 くつくつと笑う。
 にいと歪められた口はなにやら嘲っているようにも見える。しかしつと見れば、朽葉に萌黄が燃ゆるまゆみの襲を映したかのような彼の眼は僅かに細められており。ただただ愉快だ、と語っている。
 首無はすぐには返答しかね、はあ、と間延びした相槌を返した。
「あいつぁ、人間らしくなろうとしてるんだよ」
 あいつ、とは……問おうとして首無はやめた。
 リクオの口調に揶揄する響きは今度こそなく、たぷんと揺れる酒に映った姿を、柔らかな目で見ている。庇護する相手ではなく、付き従う者でもなく、ただ────そう、慈しみさえ感じる感情が向けられる相手を、首無は一人しか知らなかった。
「人間じゃねぇから、『人間らしく』なろうとするってことに、あいつはまだ気づいちゃいない」
 水面に映る己の奥に、今は眠る、人の血が支配した姿を見ているのだろうか。
「若……?」
「『オレ』が妖怪だってことを、誰よりもあいつは知っているのにな」
 ぽつり、と落とされた呟きは胸を掻き毟られるような情動に濡れていた。
 首無は息を呑む。
 ざあ、と音を立てて通り過ぎていった風、一拍遅れて色褪せた桜の花びらが盃に降る。
 漣がゆっくりと水面を薙ぎ、映る主の姿を揺らした。
「思い出せよぅ、リクオ」

 誰よりも近くて遠い片割れに呼び掛ける声を、聞いていることしか出来なかった。
 酒はいつの間にやら冷めていた。


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